【フリースクール地球子屋の考える教育】9/29子どもの学びを支える熊本県民の会主催の講演会から1ヵ月たちました。
公教育というと、どうしても全体的な利益や学校に来ている子どもが多数派で教育政策が優先されるということです。
そして教育そのものも、「学校」という学ぶ場で行うもの(教えてくれる先生がいて、教科書、机、体育館、音楽室など教材教具があるなど)ではないとできないかのような印象をお持ちの方も多いかもしれません。
フリースクール地球子屋の考え方は、教育は生活そのもの、生きるという営みそのものだと考えています。日々交わされる会話、行動によって価値観が形成されます。毎日、誰かに勉強をやらされるという状況が子どもの勉強嫌いをつくっているのは最たる例です。時々、共育という字で表現されている方もいらっしゃいますが全くその通りだと思います。共に居ることで子どもは育つ。それに加えて「今日、行く」場があること、それが社会とのつながりを作るということですから。それが子どもから大人になる過程でとても必要です。子どもの居場所ってつまりは教育をも担っているけれど、その枠に留まらないから「子どもの居場所」なる表現になってしまうだけ。すべてがそうだとは言いませんが、フリースクール=子どもの居場所=教育の場(でもある)みたいな感覚です。
世の中では、〇〇教育が良い、◇◇スクールがいい、△△塾がいいなど言われてます。でもそのどれもが万能ではないです。子どもからするとどんなに良いと言われる場であっても合わないかもしれない。だから子どもの目線に立って、その子がどう思うか、どう感じるか、それが大切です。
誰とどう過ごすかという時に、安全・安心がなければ、子どもの人権を尊重しているとは言えないのです。この子にどんな環境があるとよいのだろうかと考え、試行錯誤しながら接しています。教育は万能ではありません。その子1人ひとりに合った学びはあるはずです。それ前提として傷ついたり、悲しい思いがないことがとても大切なのです。そこもまた子どもの居場所がケアすべき範囲です。子どもをまるごと受け入れるような、そんな場が子どもには必要なのです。