子どもに必要なことは教育ではなく、「参加」

子どもの教育は、どうすればよいのか?この古くて新しい問いが、令和になって大流行りしています。
社会が混乱してくると、必ず教育の見直しにも波及するものです。

90年代は、日本はバブル経済が崩壊し社会は大混乱に陥りました。
その時に、学校教育への批判も大きかったのです。批判とは、詰め込み教育、受験戦争が激しすぎて子どもの個性が育たないというものでした。
そして市民による新しい学校をつくる運動も盛んになりました。
シュタイナー、モンテッソーリ、サドベリーなど日本の教育方針とは全く異なる教育が日本に紹介されたのです。
そうした市民の運動の結果として、文科省は「コミュニティスクール」を新たに打ち出します。
地域住民が学校運営に参画する制度です。ところが学校の情報が地域住民に共有されるはずもなく、地域住民から改善案や提案が出されて学校が変わっていくことなど全くありませんでした。
形だけ整えたとしても、全く文科省も学校も変革していこうという意思はなかったのです。

もう1つ、子どもの個性や主体性を育てる取り組みとして、学習内容の3割削減と総合的学習の時間の創設をしました。この取組の方向性はよかったと思いますが、国際的な学力比較(PISA)の結果、大きく学力が落ちたとマスコミが大騒動し、ゆとり教育は間違い、失敗と大キャンペーンが起こりました。

その後、社会はIT革命、金融ビッグバンなどものづくり日本からの脱却をしようともがいていくことになります。教育改革はだんだんと少子化と相まって下火となっていくのです。

子どもの様子としては、90年代のコギャルブームでメディアが女子高校生を持ち上げていました。その前には女子大生ブームがありました。テレクラ、ダイアルQ2など売春がお小遣い稼ぎくらいの感覚でできることが広まっていき、援助交際に発展していきます。
男子で言えば、キレる子どもや凶悪化する子ども像であったり、アイドルやアニメなどオタク文化がクローズアップされます。それは女性が性の商品化されていくことの裏返しでもあるのです。
2000年代になると発達障がいが注目を浴びていきます。集団に馴染まない子どもはKY(空気読まない)と排除されていくのです。
その後、何度もイジメそして自殺へと追いつめられていく子どもが後を絶ちませんでした。
この30年間、学校教育は何か1つでもより良い方向へと改善があったでしょうか。残念ながら
子どもの育つ環境は悪化の一途をたどっているとして思えません。

だから、子どもが学校教育に意味も希望ももてなくなっているのだと感じています。
公立の小中学校は1日も登校しなくても、卒業証書を出します。この証書は何を意味している
のでしょうか。私には、その期間を生きていたという証でしかないように思います。
そんなことで子どもたちは、この社会に出て自分の夢をかなえよう、役割や責任を全うしよう
と思えるはずがありません。

教育という言葉が、もうその責任を放棄しているように思います。
今生きている子どもたちが、ちゃんと社会に立ち向かっていける力をつけることが「教育」という言葉ではもう括れなくなっているのです。
子どもに必要なことは、社会へ「参加」する力なのです。この力がついていないためにどの子どもも大人になって苦労しています。

参加する力をつけてあげられないのは、大人の責任だと痛感しています。

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